「国民の会」役員から、「憲法改正への提言」
「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の各界役員から、「憲法改正への提言」を発信します。(50音順・敬称略)
日本オリジナルの憲法に立ち返る志を持とう
青山 繁晴 株式会社 独立総合研究所代表取締役社長・兼・首席研究員
直視しよう。わたしたちの憲法を創る、その前に現憲法に最低限度の改正を実現する、そのいずれも情況は明るくない。
だが、苦しい時こそ志は高く持ちたい。
特定秘密保護法、安保法制、いずれも他の民主主義諸国のスパイ防止法、軍事法制とは比較にならないほど、まだまだ実効性が弱い、はっきり申せば、あえて低水準にとどめた法整備にもかかわらず、被害妄想としか言いようのない騒擾(そうじょう)が起きた。
特定秘密保護法で映画も作れない、小説も書けないとテレビ番組で仰っていた人々は、法の施行後、そうなったのか。安保法制がやがて施行されても、拉致被害者の救出もできなければ尖閣諸島への中国艦船の侵入も止められない。竹島も北方領土も取り戻せない。
この情況で憲法改正など夢のまた夢と思いがちだ。しかし憲法改正の意義は逆に、あらためて実感した人も少なくないだろう。
ここでこそ、西洋から輸入した憲法観ではなく、日本オリジナルの憲法に立ち返るという根っこの志を持つべきではないだろうか。
改憲をできないでいるのは日本国憲法の話だけではない。明治維新後に成立させた大日本帝国憲法もまた、ただの一度も改正できなかった。では帝国憲法は完璧だったか。いや、「民主主義国とは戦うな」という昭和天皇の御心を実現できなかった。陸海軍への指揮権ではなく統帥権という曖昧な定めしかなかったからだ。また、帝国議会はあったが、さりとて議院内閣制ではなかった。
まだ未成熟だった憲法を、改正によって成熟させることができなかったのであ る。
それは明治憲法も西洋の憲法観を輸入したものだったことも影響している。民主主義は西洋から始まったという過(あやま)てる固定観念のために明治憲法も金科玉条となり、変えられなかった。西洋の立憲主義とは、王の圧政に対する貴族や民の反抗である。日本の天皇陛下は、私利私欲のために民を虐待なさったのか。では仁徳天皇の「民の竈(かまど)」は一体、何か。民のキッチンを充実させようと御自らの食事を粗末にされ、宮殿の屋根の葺き替えさえもなさらずに徴税を停止された。もしも架空の話ならもっと尊い。理念と哲学を示しているからだ。
ほんとうは英語のconstitution と日本語の憲法は別物だ。世界史の奇蹟として古代にわれわれが持った十七条憲法は第一条に「和をもって尊しと成し」とある。
独裁で決するのでも多数決で決めるのでもなく、それぞれの違いを尊重して和をもって決するという日本型の民主主義を表している。最後の第十七条を見ればもっと分かりやすい。「物事はひとりで決してはいけません。必ずみなで議論して決しなさい。些事は必ずしもみなで議論せずともよい。しかし重大事は判断を誤ることがある。みなで考えれば、道理に適う結論となる」。これは、生き方の手引きである。利害の調整ではないから、現憲法の百三条の長さより、はるかに短い。そして子供が読んでも分かる簡潔さと明晰さがある。美しい憲法とは、まさしくこれだ。
十七条憲法を日本書紀の創作とする説もあるが、それでも同じく古代だ。この智恵に立ち返り、異文化の立憲主義を無批判にあがめず、わたしたちは根っこの目標を定め直し、日本の憲法を初めて創るべきではないか。
国民、家族、国を護ることのできる憲法を
池内ひろ美 八洲学園大学教授(家族社会学)
今こそ、自分が信じていることを誠実に伝えなければならないときです。
愛する国を護りたい。それを言葉にすれば奇妙な視線を浴びせられかねず、国旗を掲げる人を揶揄するのは世界でも日本だけです。自虐史観などではなく、日本人の素晴らしさを思い起こし、子供たち次の世代に伝えていかなければなりません。
私は、家族問題の専門家として二十年以上前から延べ四万人近い男女の相談を受けてきました。問題を抱える家族の中には、家庭内で暴力をふるう父親もありますし、子供を虐待する母親もあり、親に背いて反社会的な行動をとる子供もあります。それでも、外部から理不尽な攻撃を受けたときには家族は一つとなり立ち向かいます。酒乱のDV夫ですら家族が攻撃を受けると怒りをおぼえ戦います。
隣人から家族についての口汚い悪口を流布されたとき、家族が傷つけられたとき、立ち上がり外敵に向かいます。それが男であり父親です。強盗が入り妻子が攻撃を受けたとき逃げる父親はいません。反撃し守りますし、そもそも強盗が入らない家をつくりたいと望みますし、理不尽な輩には気をつけるよう子供に伝えるのも親の役目です。
かりに、父親が「僕は戦わない主義です」といえば、強盗は父親を縛り上げ、妻子を蹂躙し、財産は奪われます。命も奪われるかもしれません。
政治にとって一番大切なことは国民の命を守ることでしょう。国際情勢や近隣諸国の事情が変化している時代に、日本だけが「戦いません」と言っていれば何も起こらないとでも思っているのでしょうか。
国民を、家族を、自身を守ることのできる憲法で国を護るのは当然のことです。
第9条を改正するか、自衛隊を解散するか
一色 正春 元海上保安官
日本国憲法とは何であるか。
それは戦勝国アメリカが、敗戦国日本を永久に隷属させるための順守事項を列挙した誓約書です。その誓約書を、我が国の政官財やマスコミが一体となり、アメリカの言いつけ通り70年近くも遵守してきた結果、多くの国民や領土領海が奪われ、いまだに取り返せていません。そればかりか、今また、沖縄、尖閣、東シナ海ガス田、南シナ海などの直接的侵略だけではなく、歴史問題やサイバー攻撃などの間接的侵略の危機に直面しています。
深刻なのは、同胞や自国の領土が奪われたままであるにも関わらず何等痛痒を感じず、物心ともに迫り来る侵略国の姿に危機感を抱く事なく、「誓約書さえ守っていれば自分の命は助かる」と思考停止している人間が、少なくない事です。このままいけば、自立心を忘れた我が国は他国の侵略を待つまでもなく滅んでしまうことでしょう。
我々は、今、決断を迫られているのです。「平和を愛する諸国民の公正と信義」という訳のわからないものに自国民の安全と生存を委ねさせられ、独立国家が、その成立とともに自動的に保有する「自衛権を」否定されている誓約書を今後も守り、自国民や領土が奪われているにもかかわらず何もできないまま、今後もアメリカの属国として生きていくのか、それとも自分たちの手で憲法を作り、占領軍に奪われたものを取り戻すかの決断をしなければなりません。そのためには、近い将来行われるであろう憲法改正の発議は第9条でなければなりません。第9条を改正するか自衛隊を解散するかという究極の選択を国民に迫るくらいでなければ偽りの平和にボケた日本国民は正気に戻らないでしょう。
改憲のための三点セットを提案する
伊藤憲一 評論家
日本国憲法が施行されてほぼ七十年が経過し、解釈の変更のみによって世界と日本の激変に対応することは、もはや限度に達したと思われます。そのような中で、来年の参議院選挙の結果次第では、国会の各院の総議員の三分の二以上が改憲に賛成する可能性が出てきております。この歴史的なチャンスをわれわれは無為に見送るべきではありません。
それにしても、改憲を実現するためには、改憲のための戦略が必要です。ただ漠然と改憲を口にするだけでは、目的を達成できません。国民投票に対する最初の改憲提案の内容が重要です。私は、一括全面改正は改憲憲論者の自殺行為であると考えます。まだ、まだ、国民の中における改憲への惰性的な抵抗感には大きなものがあるからです。私が提案したいのは、つぎに述べる三点セットの改憲提案です。
第一に憲法八九条の削除、第二に第九条第二項の削除、そして第三に第九六条の改正の三点セットです。第八九条は公金の支出先を制限した条項で、いっさいの私学助成を禁止しております。従って今日行われているすべての私学助成は違憲なのですが、これを問題視する日本人は一人もおりません。それをよいことに、違憲と知りながらその違憲が放置されています。きわめて不誠実な日本政治の現実がここにあります。
他方、改憲論者の立場に立てば、ここに攻めるべき戦略的目標があります。第八九条の削除を改憲スケジュールの最初に持ってくるのです。この提案に反対する日本国民は一人もいないはずです。このようにして、国民の間にある改憲アレルギーともいうべき長年の惰性を洗い落として、そのあとに、本命の第九条第二項の削除を提案するのです。第九六条の改正については、国会の各院の総議員の三分の二が賛成しなければ、たとえ国民の過半数がそれを望んでも、提案自体をすることができないという論理は、それ自体が主権在民の原理に反するものです。その理由によって、これは最初に国民に提案しなければならない改憲事項であると考えます。国民の側に立てば、この提案を拒否する理由はなにもないはずです。
「普通の国」への道半ば
潮 匡人 評論家
平成二十七年九月三十日、平和安全法制(いわゆる安保法制)が公布された。今後、半年以内に施行される。
今回すべてのマスコミが「安全保障政策の大転換」(NHK)などと報じたが、正しくない。いわゆる「集団的自衛権」の行使も「存立危機事態」の要件を満たす場合に限定された。加えて、五つの与野党間で「存立危機事態に該当するが、武力攻撃事態等に該当しない例外的な場合における防衛出動の国会承認については、例外なく事前承認を求めること」が合意され、そう閣議決定された。
これにより、焦点となったホルムズ海峡封鎖(に伴う機雷掃海)の場合、自衛隊の防衛出動は国会の事前承認が前提となる。
しょせん、この程度の法整備なのに、護憲派は「戦争法案」とレッテルを貼り、憲法違反と咎める。「立憲主義や平和主義、民主主義が死ぬ、絶対反対」と叫ぶ。事前に国会が承認する出動なのに・・・・・・。
善かれ悪しかれ、自国の自衛権行使で「例外なく事前承認を求める」のは、世界でも日本国だけ。平和安全法制下でも、自衛権行使の要件は世界一、厳しい。関連法制上は「普通の国」となっていない。
今後、何が必要なのか。今回の法整備に伴う議論を振り返れば、答えは明らかであろう。道はまだ半ば。我々は護憲派政党やマスコミの横暴に屈してはならない。
美しい日本の憲法をつくる。自衛隊を名実とも軍隊とする。そのゴールに向かう歩みを止めてはならない。
中国の侵略には目を瞑る人々
小川 義男 狭山ヶ丘高等学校長・埼玉県私立中学高等学校協会会長
憲法前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」とある。安全と生存とは、幼、小児と女性の安全だと私は受け止める。それほど信頼できる、公正で信義に満ちた「諸国民」は、極東のどのあたりに、存在するのか。幾つ、存在するのか。具体例を挙げて答えよ。「まあ、難問だわなあ」
このように、憲法は、その大前提において、完全に空洞化している。その現状において、違憲、合憲論争には、新しい光が当てられなくてはなるまい。
集団安全保障体制に関する立法に、金切り声を上げている人々に尋ねる。君らは中国の、南沙諸島、西紗諸島に対する侵略行為に、一度でも批判の声を上げたことがあるのか。その急速な軍備拡大に、疑念を抱いた事はないのか。
この内閣は、国民の圧倒的支持の下に形成された内閣である。院外で「戦争法案」「戦争内閣」と罵り立て、その打倒を目論むことは、民主的ではない。
具体的に批判するのではなく、キャッチフレーズを叫び立てて、法案を葬ろうとすることは、デマゴギーである。
もっとも、主催者側発表が、警察側発表に十倍する事は、昔も今も変わらない。
コミンテルン(共産党国際組織)は、「帝国主義戦争を内乱へ」と呼びかけ、数多くの内乱活動を組織した。それを気取っているのでもあるまいが、今は時代が違う。
社会主義国家は、地上のどこにも存在しないし、社会主義革命の可能性もない。だから他国に奉仕して内乱を醸成する必要もない。私たちは自国の子どもと、女性や老人たちを、しっかり守って行けば良いのである。
憲法改正が何故必要か
柿谷勲夫 軍事評論家
我が国と各連合国との戦争状態は、サンフランシスコ平和条約の効力が生じた昭和二十七年四月二十八日に終了し、この日に連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認しました。
すなわち、日本国憲法は連合国との戦争状態中、我が国民の主権がない時期に、占領軍が作成した原案を日本語に翻訳させられたものです。占領軍は我が国を占領すると軍隊を解体しましたから、日本国とその領水の防衛任務は当然占領軍にありました。このような、武装解除の状態にある時に作られた占領憲法原案に軍保持の規定がないのは当然です。
普通の国では、主権を獲得し独立した時、自分の手で憲法を作り、まず国家の存立に最も重要な軍の保持を明記します。が、我が国は主権が回復した時、自分の手で憲法を作りませんでした。主権が回復して六十年以上も経ちながら、占領軍に押し付けられた「占領憲法」を「平和憲法」と崇め、軍隊を持たず、兵役を苦役と蔑み、徴兵を違憲としている世界の中でも珍しい国なのです。
自主憲法を制定して「軍の保持」「国防の義務」「兵役を神聖な任務」と明記しなければ、独立国とはいえないのです。
憲法改正は国民の願い
鍵山 秀三郎 日本を美しくする会 相談役
私たちは今、日本国民として安全で安心な暮しをしています。しかしそれは限られた条件の中だけのことであって、日本を取り囲む周辺国を含めた、東アジア一帯の中の日本人としては安全ではないことを、日常的に発生している事実が教えてくれています。
こうして平穏に暮している今も、日本の何処かで国土が侵食され、領海・空を侵犯されています。善良な国民が白昼堂々と拉致されていて、ご本人は勿論のこと、ご家族を不幸に陥れていることも周知の事実です。
日本の領土・海空が侵犯されていても、今すぐ日本人全体にその被害が及ぶことではありません。しかしこの事によって、生活の基盤を侵され、生存の権利さえ奪われている人が、少なからず存在しているのです。
このような悲惨なことは、日本の防衛力が劣っているから起るのではなくて、日本の実状に合わない憲法が現存しているから起るのです。とても不思議なことです。日本国民を守るために制定されている筈の憲法が、日本国民の危険と不安を増進し、周辺の無法国を利することに役立っているのですから。
今も尚、目前で起きている事に目を瞑り、自分さえ安全に生きられれば、それで良いとしている人が大勢います。
しかし自分だけは安全であって、明日から先も安全でありたいと期待をしても、その期待は保障されたものではないのです。
その期待に確かな保障をして貰うために、憲法改正を求めるのは、国民の一人として、又、子孫を守る為にも当然のことであります。
塩野七生女史の著作の一節をご紹介します。
〝平和とは求め祈っていただけでは実現しない。誰かがはっきりと、乱そうものならタダではおかないと言明し、言っただけではなく実行して初めて実現するのである〟
憲法改正こそ、その第一歩であると確信いたします。
「敗戦国管理規則」の恒久化を狙った96条
鍛冶 俊樹 軍事ジャーナリスト
「日本国憲法」が制定された1946年当時、日本は連合軍に占領され独立国ではなかった。憲法とはいわば独立国の運営法であるから、当時の日本に憲法がある訳はない。つまり「日本国憲法」とは敗戦国管理規則に他ならない。
1952年にサンフランシスコ講和条約により日本は独立を回復し敗戦国ではなくなった。このとき、もはや敗戦国でなくなったのだから、敗戦国管理規則「日本国憲法」の破棄を宣言し新憲法制定に着手すべきだったが、怠慢にもこの手順を怠り、「日本国憲法」を独立国である日本の憲法として使用し認知してしまったのは遺憾の極みである。
かくなるうえは、日本国憲法の改正条項の手順に従って自主憲法を制定する他はなく、しかしながら、自主憲法制定の意義を国民はまだ十分理解しておらず、直ちに「天皇を元首とし、国防軍を設定する」改正案が国民の合意を得られるかは予断を許さない。
日本国憲法の最大の問題点は、改正が困難な点である。96条に定める改正手続きは各議院の総議員の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票の過半数の賛成で改正できるとなっているが、制定時とは比べ物にならないほど改正手続きが困難になっているのは、占領軍が敗戦国管理規則の恒久化を狙ったために他ならない。
つまり改正条項こそは敗戦国管理規則の核心部分であり、改正手続きの困難を緩和できれば、個々の問題については、その都度議論して改正できる。96条改正に絞った国民運動を展開すべきであろう。
日本を日本たらしめているもの
葛城 奈海 やおよろずの森代表
「国を守る」というとき、日本人は日本の何を守りたいのであろうか。国土か国民か財産か……。仮に、そうした形あるものを守るという表層的なことのみを指すのなら、三島由紀夫の言う「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」でもよいということか。
国の守りについて真摯に自問するとき、「日本を日本たらしめているもの」について考えることを避けては通れない。それはまた、国家の背骨となる憲法を日本人の手に取り戻そうとするとき、必ず踏まえねばならぬことでもある。
『日本書紀』によれば、初代・神武天皇は「建国の詔」で、「掩八絋而為宇(八絋を掩いて宇となさん)」と述べている。「天の下にひとつの家のような世界を創ろう」、つまり、「八紘為宇」こそが日本建国の旗印なのだ。
こうした建国の理念を先人達が大切に受け継いできたからこそ、日本人は他者を蹴落としてでも自分さえ競争に勝てばいい、また他国を踏み躙っても自国だけ潤えばいいという考え方を良しとしてこなかった。それが欧米列強の植民地支配とは対照的なアジア太平洋地域での統治となって表れ、引いては現地の人々の熱烈な親日感情を育むことに繋がったのであろう。
また、こうした価値観は、人間社会のみならず、一木一草にも神が宿るとして感謝と畏敬の念を抱きながら自然と調和した社会を営んできたことにも通底する。
日本人が今なすべきは、自らの中に受け継がれたそうした価値感の真価を自覚し、そこに誇りを持ち、世界的な紛争や環境問題を解決するためにも使命感を持ってこれを体現した生き方をすることではあるまいか。
我々の手による憲法では、日本を日本たらしめているこうした崇高な理念を高らかに謳おうではないか。これを守るためであれば、自衛官も喜んで「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」るであろう。
自民党国会議員は「憲法」の勉強を
高坂 節三 公益財団法人日本漢字能力検定協会代表理事
憲法解釈で問題になった集団的自衛権承認を中心とした安保国会で奇妙なことが起こった。3名の憲法学者を国会に呼んだ公聴会での出来事である。招聘した3名の中には自民党の推薦した憲法学者が居たにも拘わらず、全員が違憲という主張をしたのである。自民党が集団的自衛権の承認を目的としている以上、賛成を主張する参考人を呼ぶのが当然ではないのか。しかも、候補者の推薦をこともあろうに内閣法制局に依頼したというのである。みずからの党が招聘する参考人がどんな思想を持ち、どんな発言をするかすら調べていないと言われても仕方がない。
昔ばなしになるが、2001年、経済同友会は全国経済団体として初めて集団的自衛権行使容認を含めた憲法問題調査会の報告書を世に問うた。この時、中山太郎衆議院議員(当時)から呼ばれ、色々と話をさせていただいた。中山議員から早速、自民党議員に解説をするよう依頼があり、自民党本部に出かけ、報告書について説明をさせてもらった。残念なことに参加された議員及び秘書からの発言は同友会内部での議論よりも低調であった。しかも参加者のひとりは「これを進めて選挙に勝てますか?」と質問してきたのである。
結党以来の党是であると言いながら、今もって具体的動きにならないのは自民党国会議員の怠慢と不勉強も一因ではなかろうか。
私が憲法学者で最も信頼を寄せている、大石真京都大学教授は「憲法解釈がありうること、
・・・時代とともに変わる規範を、きちんと現実の出来事にあてはめることが責任ある解釈者の姿勢だ」とし、他方「野党は法案の印象ばかりを批判している。“戦争法案”というネーミングはデマゴギー(民衆扇動)で、国会の代表である国会議員が使うべきではない。」と話している(2015.8.2.読売新聞朝刊)
憲法改正は目標:憲法変遷論も同じく重要!
小林 宏晨 日本大学名誉教授
戦後最大の憲法変革:保守政権がもたらした戦後最大の憲法の変革は、凡そ二つある。その第一は、1950年の朝鮮戦争時の警察予備隊の創設、その第二は、集団的自衛権の限定的適用を可能にする現安保法制の制定である。
ただし第一の「警察予備隊の設置」は、占領軍の勧告(命令)で行われた。警察予備隊は対日講和条約発効直後に「保安隊」となり、1954年には「自衛隊」となり、現在に至る。前記の「自衛力」の法的基盤となる一連の法令(警察予備隊令、保安隊法、自衛隊法)は政府及び議会の多数が、これらの法令の憲法適合性を前提として制定した。つまり官僚の支援(準備)下に法案が作成され、政府が議会に提出し、議会の多数を以って議決された有権解釈グループの法令は、最高裁が違憲であると判定しない限り、自衛隊の合憲の推定が支配する。
第二の集団的自衛権の限定的適用を可能にする安保法制の制定は日本が独立後の主権国家として自発的にその制定を試みた点に於いて画期的と看做される。
しかもこれらの法制によって、日本が世界に於ける普通の国家に接近する機会が示され、周辺諸国に対する抑止力が顕示されることとなる。
憲法の変遷論:両者は、憲法の変遷論を適用している点で共通している。憲法の変遷とは、憲法の条文を変えること無しにその解釈内容を根本的に変えることである。欧米を含めて、全ての現代憲法は、これまで憲法の変遷の適用を伴って運用されてきている。
参考までに憲法の変革には三つの方法が知られている。
その第一は、憲法に規定されている方法によって条文を改正・補足・廃止する事であり、立憲国家では通常行われている方式である。
その第二は、クーデタあるいは革命によって憲法を廃止し、新たな憲法を制定する事であり、変則的ではあるが、その数は少なくない。
その第三は、憲法条文を変えずに解釈内容を変更する憲法の変遷である。この方式は、立憲国家に於いて通常に行われている方式である。最近わが国で野党が盛んに主張しているような「法の安定性」を危険に曝すような方式ではなく、立憲国家の存続に密接に組み込まれている方式である。
憲法の変遷は、むしろ第一に憲法改正を先取りし、第二にクーデタや革命を事前に阻止する機能を兼ね備えている点に於いて、第一の憲法改正と同様の重要な機能を有している。
日本はこれまで憲法の変遷を適用しており、これからも必要の応じて将来も適用する事が許される。
belligerencyの否認
佐々 淳行 初代内閣安全保障室長
ご存じのとおり、日本国憲法の原文は英語で書かれている。それを日本語に訳したがゆえの端的な矛盾が、第9条の「交戦権」である。原文では「the right of belligerency」だが、この「belligerency」は「交戦状態」の意味だ。一切の戦闘行為を含む言葉だから、放棄となると、自衛なら許されるといった解釈の余地はない。つまり自衛隊の存在そのものが憲法に反していることになる。
長く公務に就いてきた私は、この矛盾に目をつぶり「自衛権はある」という政府解釈に従って行動し、答弁してきた。つまり、仕方なくウソをついてきたと言える。
元を正せば、米比戦争後、実質上のフィリピン総督となったアーサー・マッカーサー・ジュニアが植民地統治のために記した条文だ。息子で連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが敗戦国・日本に強要したのだ。
ウソと誤魔化しを次世代まで続けさせてはいけない。一日も早い憲法改正を切望している。
日本国らしい憲法をめざして
田尾 憲男 皇學館大学特別招聘教授
明治二十二年に制定された大日本帝国憲法は、やがて大正デモクラシーの時代をもたらしたごとく、立憲主義に立脚した自由主義と民主主義を発揚進展させる基となった誇るべき近代憲法でした。昭和に入ってからは、国際的に経済軍事情勢が厳しくなって遂に米英との戦争になりましたが、法的にみれば、それは帝国憲法の責任というより、時代の要請にもとづく諸立法と政治運用の問題とされるべきものでした。それゆえ当時の一流の憲法学者はみなよくこの事情を認識し、東京帝国大学の美濃部達吉博士や後に変節する宮沢俊義教授さえも、GHQから帝国憲法を防衛するべく、当時の朝日新聞と毎日新聞紙上において憲法条文の改正は不必要との論を発表しておりました。
ところが、日本の弱体化をめざすGHQは、天皇と陸海軍と信教に関する条文を主たる標的として自ら改憲草案を作成し、日本政府にそれを強要したのです。それは、天皇から国家統治の権能を剥し、国軍を無くし、さらに日本民族の精神基盤となっていた神社神道を、国と地域共同体から完全に切り離して個人のものとすることでした。その結果、天皇は国政権能を喪失した象徴として、もはや日本国を代表する元首でなくなり(第一条及び第四条)、自衛のためであっても戦力の保持は許されず(第九条)、首相や首長の神社参拝すら違憲の問題にされるという(第二〇条)、まことに情ない「日本国憲法」となってしまったのです。
わが国にとって最も重大なこの三点を根本的に見直し、書き改めない限り、改憲で本来の日本を取り戻すことにはなりません。自主憲法制定をめざすならば、今一度、明治の先人たちが、自らの意思で主体的につくり上げた帝国憲法にまで立ち戻って、その立憲精神を大事に継承しつつ日本国らしい憲法の改正案を求めていくのが本筋というべきものでしょう。
次は本丸、憲法改正へ!
竹中 俊裕 イラストレーター(たけなかアトリエ 代表)
安保法案は無事に成立し、少しだけ普通の国に近づきましたが、やはり本丸である憲法改正ができないうちは真の自立した国家とは言えません。
世界の状勢は日々刻々と変化していて、近年その度合いはますます加速度を増しています。そういった状況の中で、70年も前に占領軍の手によって作られた憲法を後生大事に使い続けているというのはもう悪い冗談としか思えません。
世界で最古の国である我が日本は、太古の昔より天皇様の許に平等で民主的な国柄を持っていましたが、大東亜戦争後の占領下に於いて戦前の歴史と記憶を否定され、長い時間それを清算してこなかったために今では多くの日本人が、あたかも西洋から民主主義を教えられたかのように思っています。
さらに戦争責任をすべて負わせる東京裁判の影響も未だ抜けず、戦うこと自体を極度に恐れ、自国を自分たちの手で守っていくという心さえも失いかけています。
その結果「憲法は変えなくてもなんとかやっていける」「憲法を変えると戦争になる」と考える人がいまも多くいるのが現状です。
だからこそ、一つ一つの問題を丁寧に説明し、憲法を自らの手で作ることの重要さを認知させていかなければなりません。
女子中学生が拉致されて38年も取り戻せないような情けない国で居続けるわけにはいかないのです。
長い歴史の中で先人たちが血のにじむような努力で守り伝えてくれたこのすばらしい日本という国は私たちだけのものではありません。未来に産まれ来る新しい日本人のものでもあります。
現代を生きる私たちは子々孫々のためにも『日本人の日本人による日本人のための憲法』をみんなで新しく作り上げる責任があります。
そして、できるなら同時に皇室典範も一部を見直し、一刻も早く安定して男系男子で皇統が続く仕組みを作り出していただきたいと思います。
改憲にあたり心すべきこと
竹本 忠雄 筑波大学名誉教授
安倍晋三という勇気ある賢人政治家が出現したおかげで「安保関連法案」が可決され、悲願の改憲への道が開かれようとしている。第一章に天皇を元首として明記した自民党の「日本国憲法改正草案」が実現されれば、これまで糊塗されてきた日本の栄光の真姿が初めて世界に顕わとなるであろう。この時にあたって、しかし、われわれの魂の持ち方がかつてなく重要となってくる。
草案には天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるが、その概念の元は、言うまでもなく、ルソーの「人民総善説」に始まるフランス革命初年の「人権宣言」にある。その年、王は処刑され、三年後には恐怖政治となり、そこから世界中に後世の共産主義革命の因子が拡散されていった。よって、民主主義と共産主義とは同根の従兄弟関係にあるが、日本文明は根源的にそのどちらにも属していないことをこのさい銘記すべきである。われわれは、戦後断罪されたこのような「特殊性」は実は文化的独創性として誇るべきものと、世界に向けて真に肯定的に打ち出していく覚悟はあるのか。
やむなく憲政上使われた「象徴」などという訳語に騙されてはなるまい。君臣対立の西洋から生まれた主権在民思想からすればそうなろうが、そんな合理的定義は、三陸沖海岸で祈る天皇皇后両陛下のお姿に感動する日本人の国民感情とは全く相容れざるものである。国会が「戦後五十年謝罪決議」の愚を犯したとき、両陛下は「戦後五十年慰霊の旅」を敢行された。戦後七十年の今日、なおもこの旅は続いている。マルローやダライ・ラマが予告した「二十一世紀は日本の世紀」とは、生死をも超えた君民一体のこのむすびによって証されている。美しい日本は、ここにある。改憲を機に、その姿を世界に伝える使命をわれわれは持ち、その達成によってのみ「反日」をもついに調服しうるであろう。
自己決定できない国家は衰退する
田下昌明 医療法人歓生会豊岡中央病院会長・小児科医
私は現在、専門分野である子育てや母子関係の講演を全国各地で行なっています。
今日の日本の母親にとって大切な仕事は、慈愛に満ちた母性によって正しい躾を行い、もって家族の絆を強め、日本人としての誇りと豊かな感性を備えた未来の担い手たる子どもたちが、人のために生きる人間になるように育てていくことであります。そのためには、母親が日本に誇りを持っていなければなりません。それがなければ真っ当な子育てはできないのです。
現日本国憲法は、占領下において、GHQが憲法の専門家でも何でもないたった二十一人のアメリカ軍将校に一週間で作成させたものです。しかも、武力的脅迫をもって日本国政府に圧力をかけたという事実があります。
GHQがこの憲法を日本に押し付けた目的は、ポツダム宣言受諾による我が国の条件降伏を踏みにじり、実質的には「無条件降伏」にすることでありました。すなわち、最初から日本のための憲法ではなかったのです。こんな憲法を放置したままでは、国が正しく進むわけがなく、その上この憲法のもとでは青少年が我が国に誇りと希望を持つことができません。
欠陥と矛盾だらけの現行憲法は、連合国による日本弱体化政策の総仕上げの道具であり、我が国に塡められた手枷、足枷です。しかも悲しいことには、このマインド・コントロールは今でも日本人の精神を呪縛しています。
二十世紀を代表する歴史学者、アーノルド・J・トインビーは著作の中でこう述べています。
「すべての国家は衰退するが、その原因は必ずしも不可逆的なものではない。しかし、一番致命的な要因は、国家が自己決定できなくなることだ」
彼の言葉に倣えば、憲法を自ら決めるという自己決定ができない国は、衰退するということです。
我が国の真の再生は、憲法を改正しなければ実現しないでしょう。従って憲法改正は、日本が日本を取り戻すために、日本人自身が実行しなければならない必須の課題なのであります。
「美しい憲法」の意味
田中英道 東北大学名誉教授
この会の名称にも謳われている「美しい憲法」とは何であろうか。安倍首相の本の題名にもあった「美しい日本」をつくる憲法と主催者はお考えになったのだろう。この言葉は、美学的なことばであり、一見、憲法にそぐわないかに見える。
しかしそうではない。
「美」とは、羊が大きいと書く。これはもともと燔祭で大きな羊を焼いて神に捧げるという、大陸の宗教がおこなう儀式の立派さから発した文字であり、もともと「自然の美」「健康の美」という意味がある。
「美しい日本の憲法」とは、人間の「自然の美」を映しだす「立派な憲法」でなければならない、ということである。日本人は自然を信仰する民であり、自然から生まれた天照大御神と八百万の神々を尊ぶ国民である。天皇の御心を精神の中心に置き、「国」を「家」と考え、それを守ろうとする人々の憲法でなければならないのである。
戦後、人々は米国OSS(戦略局)の「日本計画」(一九四二年)から発したGHQの宣伝戦にのせられ、「民主主義」に「社会主義」の意味があることに気づくことはなかった。日本国憲法には、二段階革命をめざす社会主義革命の意味があるのである。
第九条の「戦争の放棄」も、他国からの攻撃に対し「国家」を守ろうとしない、という意味だけでなく、社会主義者の暴力革命に対し、国家を守ろうとしない、という意味でもある。この憲法が、共産党や社会党、民主党によって護られているのは、それ故である。しかし今では「社会主義」体制など自由のない「醜い」独裁社会であったことは、全世界の人々が知っていることである。
憲法改正への提言「美しい国、日本」
長谷川 裕一 長谷川興産株式会社 代表取締役
我国は天壌無窮の皇運に肇まり、知仁勇の三徳を以て国を治め、和の精神を国民の拠りどころとして繁栄してきた。
古来、我国は国憲を有するも成文律とならず、無為にして秩序を成してきた。これはまことに誇るべき国体である。
明治となって鎖国を解き、海外との交流を活発にするにあたり、明治元年3月14日、明治天皇が範を示す形で憲法に匹敵する五箇条の御誓文を発布された。明治22年2月11日、皇室典範及び帝国憲法を定め、これを祖宗の神霊に告げ、一般国民に発布し給い立憲政体が整えられた。
しかるに昭和20年8月15日の敗戦により、戦勝国によって昭和21年11月3日、新憲法が公布された。戦勝国は当然の如く、勝者の価値観の下に日本国を支配下に置き植民地とすべく、日本民族の誇りとしてきた歴史、伝統、文化を改ざんし武力を放棄させ、精神的奴隷化を進めるとともに、非人道的新憲法を与えた。その施策の一つとして、民主主義は個人主義であるとの指導がなされ、個人の地位は神同様と為され今日に至っている。勝者米国の個人主義は、大統領就任時に神父立会いの下、神の掟を守る誓約をする。即ち、神との契約を守る儀式が行われる。守らねば罰が与えられる。個人主義には重い物質的責務が問われ、宗教的道徳の裏付けがある。
我国の現憲法は、個人主義、即ち利己主義、エゴイズムの助長が内包され、世界最強の家族の絆、社会性を解体する意図が隠されている。戦後70年、日本民族の精神性が著しく損なわれることとなった。
美しい国、日本。国民・国家繁栄の拠り所としての憲法を、一日も早く取り戻し、日本の使命、戦争のない差別のない世界平和の実現に、国民の心を一つにして邁進したい。
食卓崩壊は日本国憲法にあり
服部 幸應 学校法人服部学園理事長、服部栄養専門学校校長
昔、朝と晩の二回は一家団欒で食卓を囲んだものでした。
近頃の家族は一緒に食卓を囲む機会がめっきり減ってきたようです。
家族とは、同じ屋根の下で家族みんなで食事をすることこそ家族なんです。
子ども達の行儀の悪さは目に余ります。これは核家族化したことにも原因があります。
ここまで家族の絆がバラバラになってしまった原因の本体は国家の根本である憲法にあると思っています。
理由の一つは、憲法の第三章「国民の権利及び義務」です。そこで言葉の登場回数を数えてみたところ「権利」は16回、「自由」は9回だったのに比べ、「責任」と「義務」は各わずか3回のみです。それから、ここには「家族」という言葉が一切出ていません。
出てくるのは「個人」だけ。日本の良い所は家族制度であり、責任感であり、倫理観だったはずです。(アメリカの憲法の第三章には家庭という言葉が多くでてきます)
それらを全部取りさるために家族をバラバラにして、責任も義務も教えずに権利と自由だけを強調しているのです。その結果何が起きたかというと、みんな「個人」になり、家族が失われてしまったのです。その流れの中で食卓も崩壊していったのです。
今こそ憲法を変えることで元の様な家族が戻ってくるように思われてなりません。
日本国憲法は、昭和21年に、たった1週間ほどで21人のGHQのスタッフが作成した憲法であり、神風と呼ばれた特攻隊によって体当たり作戦に出た日本兵が「お母さん」と呼んで散っていったことから、家族性が強く体当たりも辞さないことでアメリカとしては、家族の絆を断ち切る事が望ましいと思って作った憲法のようです。
アメリカは1945年以来、憲法を6回も改訂をしました。ドイツは連合軍により作られた憲法を56回改訂しました。フランスは28回とほとんどの国が憲法を時代に合わせて変えているのです。
日本も「食育」が家庭に反映するように、第3章から変えてみてはどうでしょうか。もっと食卓崩壊を止められるように。
憲法改正は二者択一で
平川 祐弘(祐は示す偏に右) 東京大学名誉教授
軍人は上官の命令で発砲して敵を殺しても殺人罪に問われないが、現行の軍隊でない自衛隊員が同じことをすると国際法的・国内法的にどのような扱いになるのか。
現行憲法の下ではそれが殺人罪になりかねない危険がある。そのことを世間に周知徹底させ、その上で思い切った二者択一を国民に求めねばならない。すなわち、「現行憲法は改正しない。その絶対的平和主義の理念を尊重し、軍隊機能のある自衛隊は廃止する」というA案と「現行憲法は改正し、軍隊機能のある現在の自衛隊は軍隊として認知し、そのまま存続させる」というB案の二つに一つを国民に選ばせる。このような国民投票の実行がもし難しいのなら、少なくともそのような二者択一形式の世論調査を繰り返し行なうべきである。そしてこのような明確な形での選択を日本が国民に求めることは、日本国民はもとより世界の多数国に日本の憲法改正の正当性を了承させることともなるだろう。
非友好的な国々に包囲されている日本
ペマ・ギャルポ 桐蔭横浜大学教授
日本国憲法はその成立の過程に大きな問題があったことは周知の通りである。そのために自民党は党の綱領に自主憲法実現を掲げ選挙に勝ち続け、長らく政権を担当してきた。党の綱領に掲げる自主憲法の制定は絵に描いた餅になってしまった。憲法第96条の規定条件が整わなかったこと等がその理由として挙げられるのだろうが、私は憲法を改正する政治的意志と切迫感がなかったのだと思っている。
「護憲派」と自称する人々は憲法改正を論じることは許さないと主張するが、私はそれこそ違憲だと思う。憲法の中には必要性に応じて憲法改正を行うための規定が明確にされている。幸い安倍首相は、結成の大義である自主憲法の制定の実現に対して努力する強い意志を示している。安倍首相は日本を取り巻く国際環境に対処する責任を痛感しているからであろう。
1940年代、アメリカはアジア太平洋の新しい覇権国家として毅然とした力を持ち、冷戦の最中、自由と民主主義という大義名分を持ち、自国民から圧倒的な支持を得ていた。また、日本の周囲に安全を脅かすような国は、仮想敵国ソ連以外にいなかった。「中華人民共和国」などという国も、まだこの世に存在していなかった。しかし、情勢は激変した。中国は毎年軍事増強し、強力な海軍と超近代的に装備した空軍を含めた240万の軍隊を背景に、東シナ海、南シナ海、そして日本固有の領土である尖閣諸島にまで触手を伸ばしてきている。北朝鮮は核を保有し、一時友好的であった大韓民国も現在は中国同様反日に転じている。アメリカは依然として超大国であることは変わりないものの、もはや世界の警察であり続ける意志も力も持ってはいない。
日本は100万以上の軍隊と核兵器で武装した非友好的な国々に包囲されている現実に目覚め、日本国の国民の生命、財産、国土、領海を守り、アジアの安定と国際平和、人類の繁栄に寄与できる、現実的な憲法の早期実現を切望する。
先人たちの苦闘を偲びつつ
細川 珠生 政治ジャーナリスト
日本国憲法は敗戦の占領下で制定された。草案を作ったのは、連合国軍総司令部。その憲法を未だ持ち合わせている日本という国は、占領下と同じともいえるのではないか。現に、ついこの間まで、独立国であれば「自然権」として認められている自衛のための権利の一つである集団的自衛権も、憲法の制約上、行使できないとされてきたからである。独立国と言えるのかどうか、疑わしい状態であった。これが一歩進んで、諸条件があるとはいえ、集団的自衛権の行使が認められるようになり、ようやく独立国らしくなってきた。憲法の制約があるのなら、憲法を改めなければならない。そして「やっと」本物の独立国となるのである。
現憲法を読むたびに、日本語の条文の可笑しさに不快になる以上に、この「独立国とはいえないのではないか」という実態に、悲しみがこみあげる。占領が終わり、独立国となったのならば、自分たちで自分たちの国の憲法を作るという「普通の」のことが行われれば良いだけだ。それは、占領下で憲法を制定するにあたり、当時の政治家たちがギリギリの交渉をし、数多くの不本意なプロセスを乗り越え、戦後体制を作ったことに報いることにもなる。占領という自らの国の意思がどこまで尊重されるか分からない中でも、「自衛権は自然権として持って然るべきこと」を主張した芦田均氏や、戦力不保持に象徴される「平和主義」を自らの発意であるとして、迅速な戦後処理を優先した幣原喜重郎氏などの苦悩を考えると、当時の政治家は、自らの立場を自覚し、国のために今何をなすべきかということに無心であったことがうかがえる。
翻って、今の日本では、日本の平和が守られてきたのは、「平和主義」を掲げるこの憲法のおかげであると考える国民がまだまだ多い。それは占領軍が作ったものであっても、お構いなしのようである。しかし、北朝鮮による拉致や竹島や北方領土へ他国の進出、領海・領空侵犯を許している状況を考えると、とても「平和」が守られてきたとは思えない。日本の主権が脅かされても、平和憲法の制約を守り続けることが大事だと考えるのであろうか。憲法を守らないわけにはいかない。ならば、主権が守られるよう、憲法を改めればよい。ただ、それだけのことではないだろうか。日本が独立国として主権が守られる当たり前の国となるために、政治家はもとより国民も、今を生きる人間の使命としてしっかり考えなければならないのである。
GHQのプレスコードに未だに縛られているメディアと自虐教育
元谷 外志雄 アパグループ 代表
憲法第九条があったから先の大戦後日本は平和だったと主張する人がいるが、それは誤りであり、日本は強大な軍事国家であるアメリカと日米安全保障条約を結んでいたからこそ、平和を維持できたのだ。しかし、そのアメリカもオバマ大統領の下で、世界の警察としての役割を放棄した。東アジアでは中国が膨張する一方で、アメリカが毎年五兆円もの軍縮を行って撤退しつつあり、力の空白域が生まれてきている。この空白域を日本が埋めなければ東アジアの平和が維持できない。そのためにも、集団的自衛権の行使を認め、日米安保条約をいくらかでも双務的な条約に変えて日米の連携を強化するとともに、日本はアメリカ、インド、オーストラリア、台湾等、親日国家とヨーロッパのNATO(北大西洋条約機構)のような集団的安全保障体制を作り、東シナ海や南シナ海における中国の海洋覇権に対抗していくべきだと考えている。
現行憲法は、アメリカが日本を武装解除し、永遠に植民地状態に縛っておくために、GHQによって創られたものである。その前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、現代の国際社会がそのような状況にないことは明らかだろう。しかし、憲法の改正の発議に必要な国会議員の三分の二は確保できたとしても、国民投票で過半数の賛成を得ることは難しい。その原因は、戦後GHQが施行したプレスコードに未だに縛られているメディアと自虐教育のために、多くの日本人が現状を直視せず、「平和を唱えれば平和になる」という念仏平和主義に陥り、「九条の会」を全国に七千以上も創設して、憲法改正を国民投票で阻止しようとしていることにある。安倍政権が今国会で成立させた安保関連法は、憲法改正が困難な中での現実的な対応であるが、憲法改正のためには左傾化したメディアと自虐史観に基づく教育を変えることから始めていかなければならない。
煽動政治がなくなる時
屋山太郎 政治評論家
安倍政権が発足してすぐ、安倍首相は憲法96条の改正を訴えました。96条というのは憲法改正の発議ができるのは衆参両院のそれぞれの3分の2――という項目です。これを2分の1にすれば憲法改正の発議は容易なるわけです。
ところが、これに反対する人達は「これは9条改正を容易にする魂胆だ」と反発。96条と9条を同一にみて反対しました。これでは96条と9条とは違ったものだという説得から始めねばなりません。そこで安倍首相は集団的自衛権行使の新安保法の成立を急いだのです。
眼前の敵が隙あらば力づくで島をもぎとろうという時に、9条改正まで待つわけにはいきません。新安保法について「まず憲法改正からやるべきだ」という人達の殆どは9条改正反対を胸に秘めておためごかしをいっているだけです。
安倍晋三氏は総裁選で再選されました。あと3年の任期があるわけですが、私はこれまでのやり方で憲法改正に持ち込むのは成功率が低いと見ています。
反対している人達は共産党と旧社会党に連なる社民党、民主党に潜伏した旧社会党の人達です。この人達は米国との単独講和に反対し、全面講和(ソ・中も加える)を唱えていました。自国の武装に反対するイデオロギーは日本だけです。しかも憲法前文にある「諸国民の公正と信義」に信頼して平和を守ることはすでにできなくなっているのです。相手が殴れば殴り返されるかもしれないと認識してこそ平和は保たれる。この国際常識を国民の常識にすることが先決です。
いま政界に吹いている政界再編の風は自民党の反対側の世界をどう整理するかが隠れた動機です。整理のポイントは民主党が、旧社会党の勢力から、どこまで距離を置くかです。煽動政治がなくなる時に憲法改正は可能になると思います。